看護助手として出会った方
こんにちは。【手足のお爪のケアサロン 雫】の三浦智恵美です。
介護福祉士として働くかたわら、健康寿命を延ばすケアネイルをお伝えしています。
専門学校を卒業した後アパレルで服の企画やデザインの仕事をしていましたが、会社が倒産してしまいました。
次の仕事がなかなか見つからず、実家に帰ることに。そして看護師である母に勧められ看護助手として療養型の病院で働くことになりました。
27歳の時でした。
そこは終身の病院だったので、一度入ってしまえばここで一生を終える方がほとんどで、いわゆる終の住処でした。
入院している方は高齢の方が多く、私が所属していた病棟は54床ありその半数以上が寝たきりで胃瘻やIVH(高カロリーの
点滴を行って栄養を取る)の方でした。
母が看護師なので話は聞いていましたが、実際に初めてそういう状況を目の当たりにして、とてもショックを受けたのを覚えています。
身体の拘縮した方。拘縮が酷く服を着せてあげることも難しく、肌着だけを着て病衣を身体に被せている状態の方。自分では全く身体を動かせない方がたくさんいました。
酷い褥瘡(床ずれ)の方。背中に完全に穴が空いていました。
点滴を抜いてしまうからととミトンを付けている方。
ミトンをつけていても動いて危ない方は、そのミトンをベット柵に括られていました。
もちろん家族様に許可を取っていますが見てい本当に辛くなりました。
働き出して数日は、不安定になり毎日夜になると家で泣いていて、母はとても心配していました。
その当時の私は、せっかく入職したんだからすぐに辞めるわけにはいかないと思っていてなんとか頑張らないとという気持ちでした。
師長さんがとても良い方だったり、看護助手のリーダーも優しく丁寧に仕事を教えてくれて人間関係はとても良い職場でした。
そのリーダーと私含めて4人でとても親しくなり、年齢はバラバラなのですが今でもたまに会っています。
仕事は辛い事も多かったのですが、中には身体は動かないけれどお話しできる方もいて、その方の食事介助に入ると色んな話をしました。その時間はとても楽しかったし患者様も楽しみにしてくれていました。
スポーツ好きでスポーツの話をよくしてくれた方。
氷川きよしの大ファンでいつもテープを流していた方。
駅伝やマラソンを楽しみにしていた方。
色んな方がそこで生活をし終の住処になっていました。
しんどくて挫けそうになると、食事介助・入浴介助・排泄介助、私たちがそれをする事によって、この方たちは人間らしい生活が出来ているんだと思いながら毎日仕事をしていました。
この病院で働いていてとても印象に残っている方がいます。男性の患者様で50代後半だったと思います。
身体は拘縮がひどく腕も足も不自然に固まっていました。自分では身体を動かす事も声を発することも出来ませんでした。
眼球だけは動かせるようで、オムツ交換や着替えの時に声をかけると目を合わせてくれていました。
ちゃんとこちらの話を聞いていて理解してくれてるのかなと思い話しかけるようにしていました。
ある日、その方に面会がありました。80代くらいのご夫婦でした。
他の職員に聞くとあの患者さんのご両親だよと教えてくれました。
その時にハッとしました。
50代後半の方だったのでまだご両親がご存命だったんです。
ベットの側に2人で座っておられました。自分の息子がこんな状態になってどういう気持ちでおられるのだろうと考えてしまいました。
その方は胃瘻でした。若くしてそういう状態になったので少しでも長く生きていて欲しいと思い胃瘻の選択をしたのかもしれません。
何度かお見舞いに来るのを見かけました。私が感じる気持ちと実際の当人の気持ちはわかりません。色々なことを考えるきっかけになった方です。
ここでは月に3回ほど夜勤をしていました。やはり夜や朝方に亡くなる方が多く私も何度も経験しました。
看護師さんと助手とでエンゼルケアをするのですが、初めての時看護師さんに「あんた若いんやから綺麗にお化粧してあげて」とメイク用品が入ったポーチを渡されました。みると一通りメイク道具が入っていましたがどれもとても汚れていました。
初めての時は頬紅と口紅を付けただけだったと思います。
その後、夜勤の空いた時間にメイク道具を綺麗にしたりしていました。忙しい職場だったので綺麗にする余裕はなかったのだと思います。
あの時メイクポーチに入っていたのは100円ショップの物や職員が使わなくなった口紅などでした。
家族様にメイクの希望を聞いたこともありませんでした。
それでも家族様から綺麗にしてもらってありがとうと言っていただける事もありました。
ここで働いた2年間は辛い事も多かったのですが、今思うと全ての経験が自分の財産になっています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。