私が介護士を続けてこれた理由

こんにちは。介護美容 雫の三浦智恵美です。介護福祉士、ケアビューティストをしております。
私がなぜ介護士を続けてこれたのか、それは祖母との関係、再会が大きかったです。そんな話について書いています。


目次

子供の頃の私と祖母との関係

私の家から、父方の祖母の家は歩いて10分の所にありました。母は日中働いていて、あまり構ってくれなかったので、ただただ優しくしてくれる祖母の家によく行っていました。

家に帰らず、祖母の家から保育園に行っていた時期もあって、母が連れ戻しに来たそうです。
母には申し訳ないのですが、子供の私にとってはそれくらい居心地の良い場所だったのだと思います。

そこには伯母も住んでおり、家で服を作る仕事をしていて工業用ミシンを踏んでいるのを、横でいつも見学していました。
私と弟の服も何枚か作ってくれたことがあります。

私が洋裁を好きになったのは伯母の影響だと思います。

保育園、小学校の間は良く行っていたのですが中学校に入ると、友達と遊ぶ方が楽しくなりだんだんと足が遠のいていきました。

そして高校の時に両親が離婚すると、さらに行かなくなりました。
祖母や伯母の事は好きでしたが父の事が好きではなかったのと、母に対して気を遣ったのかもしれません。

それでも誕生日には連絡が来たり、年賀状を送ってくれたりしていました。

その後は成人式の写真を見せに一度訪ねました。祖母も伯母もとても喜んでくれて、何枚か写真を渡してきたのを覚えています。

そしてそのまま時が流れ、25歳の頃に実家を出て一人暮らしをする事になり、祖母の家からも離れるので久しぶりに会いに行こうとふと思いました。

少し緊張しながら電話をすると伯母が出て、驚いていましたがおいでと言ってくれました。

訪ねると伯母はあまり変わっていませんでした。祖母はもともと小さい人でしたがさらに小さくなっており、私の事は覚えているようでしたが、小さい子に話しかけるような感じで何度も同じ事を言っていました。

その頃は服飾の仕事をしていて、介護の知識など全くなかったので、しばらく会わない間に老けちゃったなと思う程度でした。

伯母からは、近くのデイサービスに行っているという話を聞きました。

一人暮らしを始める事を話すと、伯母は寂しくなるけど頑張ってねと言ってくれました。祖母もにこにこして頷いていましたがあまりわかっていないようでした。

家には私の赤ちゃんの頃の写真や、成人式の写真が飾ってありました。私が小さい頃に読んでいたリボンやおもちゃもずっと置いてありました。

祖母との奇跡のような再会

一人暮らしをしながら服飾の仕事をしていましたが、会社が倒産してしまい次の仕事がなかなか決まらなかったこともあり実家に戻ることにしました。

そこから、母の勧めもあり看護助手で2年働いた後、介護の仕事をしてみようと思い初任者研修を取得してから、家から歩いて5分のデイサービスで働きはじめました。

そして出勤初日に、送迎車の中で送迎表を見て驚きました。祖母の名前があったんです。

そういえば以前、家を訪ねた時にデイに行っていると聞いたことを思い出しました。

職場の上司に聞くと、長女と長男(私の伯母と伯父)が介護をしていて、私の父でもある次男もたまに来ているとのことでした。 

両親が離婚した後、父には会っておらず、ここで働いていることを知られたくなかったので、上司に事情を説明して送迎に当たらないようにしてもらいました。

そしてデイで祖母に再会しました。最後に会った時から5年ほど経っていました。さらに小さくなっていて大きいリクライニング車椅子のせいでさらに小さく見えました。

歩くことも出来ず、目はほとんど見えず、耳も右耳だけがかろうじて聞こえるという状態で、私の事も全く認識出来ませんでした。
家ではほぼベッドの生活で、デイでもリクライニングの車椅子でほとんど寝ている状態でした。

私は複雑な気持ちでしたが、家に帰り母に言われたのは

「これも何かの巡り合わせだと思うよ。あんたは子供の頃に本当に可愛がってもらったんやから、これからお世話出来て良かったやん」

という言葉でした。

母に遠慮して祖母に会わなくなった経緯もあったので、そんな風に言われて安心したのを覚えています。

しかし周りが働きにくくなるかもという思いと、他の職員は送迎で私の父に会っていたので、知られたくないという気持ちがあり、初めは上司を含め4人くらいにしか伝えていませんでした。

祖母は全介護の状態で、玄関が高く狭かったので、スロープを設置するなど送迎も大変だったのですが、事情を知らない職員から愚痴を聞くこともありませんでした。

ほとんど意思疎通も取れない状態でしたが、可愛らしかったのでどの職員もとても丁寧に介護をしてくれていました。

しかし送迎を外してもらっていたので、いつまでも内緒にしている訳にはいかなくなり途中で事情を話しました。

それからは私が働き出すまでの祖母の様子を職員から教えてもらったり、私が昔の祖母の話をしたり

「家に飾ってる赤ちゃんの写真は三浦さんやったんやね。」

と言われ恥ずかしくなりましたが嬉しかったのを覚えています。

祖母も洋裁をしていたので、手で何かを縫う様な仕種をよくしていました。

もしかしてと思い、たまに耳元で「孫のちえみやでー」と言ってみましたがわかっていない様でした。

よく「みっちゃんみっちゃん」と言っていました。たぶん私の父の事だと思います。
父は祖母のことをとても大事にしていて、私や母よりも祖母を優先することがあり、そんな父に不満を抱いていましたが、父と祖母の絆は大きいんだなと感じました。

それから数年後、状態が悪くなり数日デイサービスを休んだ後に亡くなりました。

94歳だったと思います。

職員は気を遣って休んでもいいよと言ってくれましたが、私がここで働いている事は父も伯母も知らなかったので、お葬式には行きませんでした。

しばらくして伯母から、おばあちゃんが94歳で亡くなりましたと葉書が来ました。

介護の仕事を始めていなければ、あのまま祖母に会う事はなかったかもしれません。

感謝を伝えれたのかはわかりませんが、最後の数年を一緒に過ごせてそばで見守ることができて、私は幸せだったなと思います。

この祖母との再会は私の中でとても大きな出来事で、今思うと辛いことやしんどいことがあっても介護士を続けてこれた理由になっていると思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

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